どんこま散歩

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児童養護施設をもっとみんなに知ってほしいブログ

児童養護施設職員さんに感謝

今まで散々言いたいことを書いてきましたが、今回は感謝のお話です。

 

児童養護施設の職員さんに助けられた

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児童養護施設で暮らした期間 

私は7歳の5月から19歳になる半月前の3月まで児童養護施設で育ちました。

私は4月生まれなので小学校一年生の春に入所し、高校3年生の春に退所したことになります。

書類上は3月の31日付けで退所となっていると思いますが、実際退所となったのは3月の上旬。3月の頭から既に就職先の研修が始まっていたので、会社の寮に入り、同期とともに研修へ通っていました。

 

私が児童養護施設へ入るまでの経緯は過去の記事に書いてあるので興味がある方はご覧くださいませ。

 

donkoma.hatenablog.com

 

児童養護施設で訪れた転機

約12年間の暮らしの中で、1回目の転機が訪れたのは14歳の夏の事です。

 児童養護施設で暮らして早7年がたったころでした。

周囲の期待からかいい子を演じ、真面目に暮らすことに疲れきっていた私は、

周りの自由な生活スタイルに憧れて児童養護施設のルールを逸脱するようになっていました。

 

門限破り、通称【裏金】と呼ばれていたお小遣いとは違うお金の所持、使用。

自転車窃盗、万引き・・・

 

万引きといってもガムや飴を盗むかわいいものではありませんでした。

ゲームソフトや洋服、腕時計など比較的高価なものも沢山。

 

調子に乗っていたある日。いつものように万引きに出た私はとあるドラッグストアで捕まってしまいました。逃げようかとも考えましたが、その時なぜか逃げずに観念。

そのまま警察に連れていかれ、補導。

児童養護施設より職員が迎えに来ました。

 

なんてのは一例ですが、そんなことをこりもせず(万引きはその後してません)繰り返しているうちに・・・

 

2度目の一時保護所へ行くことに。

一時保護所の記事でも書きましたが、一時保護所へ行く理由は様々です。

児童養護施設から逆戻りなんてこともしばしばあります。

大抵は施設内で問題を起こしているケースですが・・・

 

今回は私もそのケース。

大抵の場合別の児童養護施設への移動か、自立支援施設(昔の教護院)への措置変更です。

昔の教護院(現自立支援施設)とはどちらかというと児童養護施設というよりは少年院に近く、やんちゃな子どもたちが集められる施設です。

非行で補導されたりした子どもなんかは一時保護所から直接自立支援施設へ行くケースも少なくはありません。

 

私自身も覚悟をしていました。

正直もうその時点では人生なんてどうでもよくなっていたので、どうなっても受け入れるつもりでいました。

夏休み中の入所だったのもあって、特例で現在の中学校で使用している教材の持ち込みは許されており、勉強の時間は宿題をこなしていましたが、今思えばやる必要がなかったですね・・・

 

一時保護所の中ではいつもイライラしていたのを覚えています。

 

そんなある日・・・

 

 

一時保護所の職員に呼び出されました。

 一応一時保護所の中でも担当職員みたいな方がいて、今後の話はその人から聞くのが定例でした。

 

内容は元いた児童養護施設に戻れるという話。

 

その少し前にその職員からは

「お前なんかどうなっても知らないからな」

と言われていたので、正直こいつ何言ってるんだ?とおもって聞いていましたが、

その後元いた児童養護施設の職員との面会もあり、真実なことを理解しました。

 

因みになんで一時保護所の職員がそんな言葉をいい放ったかといいますと、

実は挑発されたのがムカついて、その挑発してきた子ども(1つ下)を泣かせてしまったのです。正に自分が蒔いた種なのですが、その後怒鳴られ、懲罰を受け、隔離。

 

これに関しては挑発に乗った私が悪いので何とも言えないですが、

その時に言われたその言葉は今でも鮮明に覚えています。

 

話がそれましたが、元いた児童養護施設にもどれることが正式に決まりましたが、

一つ変わることがあるとのこと。元々いた本園はなく分園へ行くとのことでした。

年下の子からと年上の子からの板挟みになっていた事で苦しんでいた私からしたら、年上しかいない分園は願ってもいない場所。

 

当時の分園は*1グループホーム形式になっていて、高校生しかいませんでした。

そこに異例ではありますが中学生が一人。

 文句を言う先輩もいました。本園より自由度が高く、制限も少ないですから。

ましてや自分は高校になるまでこれなかった場所。

 

その文句を言う先輩こそ例の先輩です。

詳細は下記記事にありますのでご覧ください。

 

donkoma.hatenablog.com

 

守ってくれた職員がいた

 っとここからは後日卒業してから聞いた話ですが、

私が元いた児童養護施設へ戻ることができたのはある職員の思いがあったからです。

 

施設内の会議にて大半の職員は措置変更、施設の移動を推したそうです。

今の私からしても懸命な判断だとは思います。

しかし、二人の職員は言い続けたそうです。

 

「なりみたいな子を最後まで見てあげないで誰をみてあげるんだ!」

 

と。

今書いていても思い出して涙がでそうですが、わかっていてくれたんです。

 

上の子と下の子の板挟みになっていたこと。

自分の感情を押し殺していること。

その為問題のない子どもと評価され、2年もしくは1年ごとに担当職員が変わっていること。

 

ずっと子どもなりに職員へなるべく迷惑をかけないようにしていました。

それが良いことだと思っていました。

子どもが大人に気を使ってることがいい事なはずがない・・・

 

その職員の一人は一時保護所へ行く前まで私の担当だった職員でした。

その2年後にはグループホームへ配属になり私の担当に戻り、退所の時まで担当でした。

 

因みにもう一人一緒に声をあげてくれた職員も同時期にグループホームへ配属となり、

産休にはいるまでは見てくれていました。

本当にグループホームで職員に恵まれた思います。

 

 愛は伝わるものですね。

 

7人の担当変更

 先ほど担当が1年もしくは2年で変わったと書きましたが、内訳はこんな形。

  1. 入所から3か月間
  2. 小学2年生まで
  3. 小学2.3年生
  4. 小学4.5年生
  5. 小学6年生~中学1年生
  6. 中学2年生(夏まで)
  7. 中学2年夏~中学3年生まで
  8. 高校3年間

 

壮観なり。

私自身の理由があったにしても多くないです?
6.8は同じ人なのでトータル7人。

その内新人(施設に来たばかりの初年職員)が2.3.5.6

新人の教育係ですやん・・・

 

このシステムは流石にどうにかした方がいいとは思いますが、私は逆に良かったとおもっています。

このことがきっかけで職員の良し悪しがわかるようになったので。

 

この中で今でも連絡が取れる方は6人

その内現職は2人(個人的には連絡取っていないが施設に連絡すれば会える)

個人的に連絡にとれるのは2人

1人は今でもたまに一緒に呑みに行ったりしています。

 

児童養護施設職員の方々へ

全員と密に関われとはいいません。

しかしながら一人でも二人でも貴方に救われたという出身者がいるといいですね。

この仕事はとても大変できついとおもいます。

子どもたちの人生が貴方にかかってますからね。

 

勉強しましょう

助け合いましょう

思いや考えを伝えてあげましょう

 

必ず思いが届く日がきます。

その日まであきらめないであげてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:親と一緒に暮らせない子どもなど生活に困難を抱えた人達が、専門スタッフ等の援助を受けながら、小人数、一般の住宅で生活する社会的介護、社会的養護の形態のことである。