どんこま散歩

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児童養護施設をもっとみんなに知ってほしいブログ

児童養護施設職員さんに感謝

今まで散々言いたいことを書いてきましたが、今回は感謝のお話です。

 

児童養護施設の職員さんに助けられた

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児童養護施設で暮らした期間 

私は7歳の5月から19歳になる半月前の3月まで児童養護施設で育ちました。

私は4月生まれなので小学校一年生の春に入所し、高校3年生の春に退所したことになります。

書類上は3月の31日付けで退所となっていると思いますが、実際退所となったのは3月の上旬。3月の頭から既に就職先の研修が始まっていたので、会社の寮に入り、同期とともに研修へ通っていました。

 

私が児童養護施設へ入るまでの経緯は過去の記事に書いてあるので興味がある方はご覧くださいませ。

 

donkoma.hatenablog.com

 

児童養護施設で訪れた転機

約12年間の暮らしの中で、1回目の転機が訪れたのは14歳の夏の事です。

 児童養護施設で暮らして早7年がたったころでした。

周囲の期待からかいい子を演じ、真面目に暮らすことに疲れきっていた私は、

周りの自由な生活スタイルに憧れて児童養護施設のルールを逸脱するようになっていました。

 

門限破り、通称【裏金】と呼ばれていたお小遣いとは違うお金の所持、使用。

自転車窃盗、万引き・・・

 

万引きといってもガムや飴を盗むかわいいものではありませんでした。

ゲームソフトや洋服、腕時計など比較的高価なものも沢山。

 

調子に乗っていたある日。いつものように万引きに出た私はとあるドラッグストアで捕まってしまいました。逃げようかとも考えましたが、その時なぜか逃げずに観念。

そのまま警察に連れていかれ、補導。

児童養護施設より職員が迎えに来ました。

 

なんてのは一例ですが、そんなことをこりもせず(万引きはその後してません)繰り返しているうちに・・・

 

2度目の一時保護所へ行くことに。

一時保護所の記事でも書きましたが、一時保護所へ行く理由は様々です。

児童養護施設から逆戻りなんてこともしばしばあります。

大抵は施設内で問題を起こしているケースですが・・・

 

今回は私もそのケース。

大抵の場合別の児童養護施設への移動か、自立支援施設(昔の教護院)への措置変更です。

昔の教護院(現自立支援施設)とはどちらかというと児童養護施設というよりは少年院に近く、やんちゃな子どもたちが集められる施設です。

非行で補導されたりした子どもなんかは一時保護所から直接自立支援施設へ行くケースも少なくはありません。

 

私自身も覚悟をしていました。

正直もうその時点では人生なんてどうでもよくなっていたので、どうなっても受け入れるつもりでいました。

夏休み中の入所だったのもあって、特例で現在の中学校で使用している教材の持ち込みは許されており、勉強の時間は宿題をこなしていましたが、今思えばやる必要がなかったですね・・・

 

一時保護所の中ではいつもイライラしていたのを覚えています。

 

そんなある日・・・

 

 

一時保護所の職員に呼び出されました。

 一応一時保護所の中でも担当職員みたいな方がいて、今後の話はその人から聞くのが定例でした。

 

内容は元いた児童養護施設に戻れるという話。

 

その少し前にその職員からは

「お前なんかどうなっても知らないからな」

と言われていたので、正直こいつ何言ってるんだ?とおもって聞いていましたが、

その後元いた児童養護施設の職員との面会もあり、真実なことを理解しました。

 

因みになんで一時保護所の職員がそんな言葉をいい放ったかといいますと、

実は挑発されたのがムカついて、その挑発してきた子ども(1つ下)を泣かせてしまったのです。正に自分が蒔いた種なのですが、その後怒鳴られ、懲罰を受け、隔離。

 

これに関しては挑発に乗った私が悪いので何とも言えないですが、

その時に言われたその言葉は今でも鮮明に覚えています。

 

話がそれましたが、元いた児童養護施設にもどれることが正式に決まりましたが、

一つ変わることがあるとのこと。元々いた本園はなく分園へ行くとのことでした。

年下の子からと年上の子からの板挟みになっていた事で苦しんでいた私からしたら、年上しかいない分園は願ってもいない場所。

 

当時の分園は*1グループホーム形式になっていて、高校生しかいませんでした。

そこに異例ではありますが中学生が一人。

 文句を言う先輩もいました。本園より自由度が高く、制限も少ないですから。

ましてや自分は高校になるまでこれなかった場所。

 

その文句を言う先輩こそ例の先輩です。

詳細は下記記事にありますのでご覧ください。

 

donkoma.hatenablog.com

 

守ってくれた職員がいた

 っとここからは後日卒業してから聞いた話ですが、

私が元いた児童養護施設へ戻ることができたのはある職員の思いがあったからです。

 

施設内の会議にて大半の職員は措置変更、施設の移動を推したそうです。

今の私からしても懸命な判断だとは思います。

しかし、二人の職員は言い続けたそうです。

 

「なりみたいな子を最後まで見てあげないで誰をみてあげるんだ!」

 

と。

今書いていても思い出して涙がでそうですが、わかっていてくれたんです。

 

上の子と下の子の板挟みになっていたこと。

自分の感情を押し殺していること。

その為問題のない子どもと評価され、2年もしくは1年ごとに担当職員が変わっていること。

 

ずっと子どもなりに職員へなるべく迷惑をかけないようにしていました。

それが良いことだと思っていました。

子どもが大人に気を使ってることがいい事なはずがない・・・

 

その職員の一人は一時保護所へ行く前まで私の担当だった職員でした。

その2年後にはグループホームへ配属になり私の担当に戻り、退所の時まで担当でした。

 

因みにもう一人一緒に声をあげてくれた職員も同時期にグループホームへ配属となり、

産休にはいるまでは見てくれていました。

本当にグループホームで職員に恵まれた思います。

 

 愛は伝わるものですね。

 

7人の担当変更

 先ほど担当が1年もしくは2年で変わったと書きましたが、内訳はこんな形。

  1. 入所から3か月間
  2. 小学2年生まで
  3. 小学2.3年生
  4. 小学4.5年生
  5. 小学6年生~中学1年生
  6. 中学2年生(夏まで)
  7. 中学2年夏~中学3年生まで
  8. 高校3年間

 

壮観なり。

私自身の理由があったにしても多くないです?
6.8は同じ人なのでトータル7人。

その内新人(施設に来たばかりの初年職員)が2.3.5.6

新人の教育係ですやん・・・

 

このシステムは流石にどうにかした方がいいとは思いますが、私は逆に良かったとおもっています。

このことがきっかけで職員の良し悪しがわかるようになったので。

 

この中で今でも連絡が取れる方は6人

その内現職は2人(個人的には連絡取っていないが施設に連絡すれば会える)

個人的に連絡にとれるのは2人

1人は今でもたまに一緒に呑みに行ったりしています。

 

児童養護施設職員の方々へ

全員と密に関われとはいいません。

しかしながら一人でも二人でも貴方に救われたという出身者がいるといいですね。

この仕事はとても大変できついとおもいます。

子どもたちの人生が貴方にかかってますからね。

 

勉強しましょう

助け合いましょう

思いや考えを伝えてあげましょう

 

必ず思いが届く日がきます。

その日まであきらめないであげてください。

 

*1:親と一緒に暮らせない子どもなど生活に困難を抱えた人達が、専門スタッフ等の援助を受けながら、小人数、一般の住宅で生活する社会的介護、社会的養護の形態のことである。

続きを読む

一時保護所という名の刑務所【児童養護施設入所への登竜門】

皆さんは一時保護所という場所をご存じでしょうか。
大半の人は知らない、
もしくは名前は聞いたことあるけれど、中身は知らない。なのかと思います。
 
 

社会養護の出発地点

 児童養護施設、自立支援施設などへの入所前に必ず通る場所。

その理由が親からの虐待であろうと、

育児放棄であろうと、子どもの非行であろうと。

様々な理由が元で収容されることになる。

そこはまるで刑務所の様な場所である。

 
  • 社会養護の出発地点
    • 一時保護所へ収容されるケース
    •  一時保護所はあくまで一時保護する場所
      • 医師による問診
      • 私物は全て没収
      • 一時保護所内で使用する物の配布
      • 施設説明と施設見学
      • 生活する部屋へ案内
    • 何度入っても変わらぬ管理体制
    •  まとめ

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一時保護所へ収容されるケース

子どもたちが一時保護所へ収容される理由の大半が虐待です。

自分から一時保護所へはいる子どもはほとんどいないですが、今の状況が続くのなら一時保護所のほうがいいと思っている子どもは世の中にたくさんいるでしょう。

 

しかし一時保護所へ収容される子どものほとんどはそれを望んではいません。

子ども達が望む望まないに関係なく強制的に収容される場所。

それが一時保護所です。

 

最近テレビやネット記事などで児童相談所という言葉はよく目や耳にするかと思います。 その児童相談所へ様々な情報や連絡がまずいきます。

そして児童相談所から職員が派遣され、保護した人、もしくは警察から引き渡されたのちに一時保護所への収容が決まるわけなのですが…

ここがまたノーモーション

 

いきなり一時保護所へ連れていかれるケースも珍しくありません。

勿論、親からの相談で同意のもと預けるケースもあります。

経済的な理由や、予期せぬ病気をしてしまったとか、育児が困難な場合に相談が来るケースも多々あります。

しかし、その場合は親が回復すると再び引き取るケースが多いので問題ないのです。

問題なのは親が知らなくて、保護されてから後で知らされたケース。

 

想像してみてください。

 

そりゃ激怒しますよね。

 

しかし、その親は虐待してると思っていないからそれを続けているのです。

勿論気が付いてはいません。

なので、子どもが一時保護所へ保護されたと連絡を受けると・・・

 

 

『はぁ?』

 

 

となるわけです。

それもそのはず・・・

 

いきなり自分の子どもが前触れもなく、ワケのわからない所へ収容されるわけです。

しかも親である自分の許可も取らずに勝手に。

からしたら至って普通の感覚です。

 

 

その親が子どもに対して何もしていなければですが・・・

 

 

勿論本人は何もしていない。むしろ育ててやってる。と思っていますから悪いことをしている認識はありません。そこが虐待の最大の特徴だと思います。

 

  • その親からすると教育。
  • 子どもからすると日常茶飯事なので当たり前。
  • 周りから見ると虐待。

 

違いがわかりますか?

これね、誰も間違ってはいないんです。

子育ての方法に明白な決まりはないから・・・

ただ、虐待はしてはいけませんってルールがあるだけなんです。

だからそこに違いが生まれる。

 

子どもが親と離れたいわけはない。できれば一緒に居たいですよ。

優しくしてほしいですもの。

 

 因みに私が一時保護所へ行くことになった経緯が気になる方は

下記記事をご覧ください。

donkoma.hatenablog.com

 

 一時保護所はあくまで一時保護する場所

読んで字の如し

一時保護所。

そのままなので誰も疑問に思わないかもしれませんが、

一時ってどれくらい?

一時保護所の場合は短くて2週間、長くても2か月です。

それ以上はダメと決められています。

 

 

一時保護する場所なので、当然一時いたら家に帰る子どももいます。

例として上に書いた一時的に養育が困難になった家庭の場合。

補導されたケース(親が引き取れる状況にある場合)

迷子になって保護された場合

 

平たく言うと親が引き取れると判断されれば家に帰れます。

なので必ずしも

 

一時保護所へ収容=児童養護施設へ行く

 

にはならないのです。

これだけは皆さんに知っておいていただきたいです。

 

それを知ったうえで・・・

実態を知ってください。

 

一時保護されてからの流れは上の記事にも書きましたが、おさらいします。

 

医師による問診

まず有無を言わさず半裸にされ、傷や痣の確認が行われます。

基本的な聴診器での診断や触診も行われますが、上記を見る目的がメインでしょう。

 

私物は全て没収

施設内での公平、盗難を防ぐ目的で私物は全て没収されて保管されます。

その時の保管は倉庫内なので時期によっては保管状況が悪く退所の際痛んでいることもあります。

 

一時保護所内で使用する物の配布

着る服や文房具など、施設内で個別使用する物を与えられます。

基本的にあるものの使いまわしなので、タイミングが悪いと変なものしかなく、

それが理由で馬鹿にされたりもします。

 

施設説明と施設見学

施設内のルールや設備の説明が施設を見学しながら行われます。

職員によってはかなり適当です。

 

生活する部屋へ案内

最終的に生活する部屋へ案内されますが、その時に居なければほかの人への紹介は特にないので部屋に戻ってきたら知らない人がいるという状況が度々起こります。

 

これが最初の苦行。

特にある程度大きくなってから入所する子どもは抵抗あると思います。

そして特に先住民の皆さんへの紹介などはなく、結構ぬるっと一時保護所の一員にされます。

 

 

何度入っても変わらぬ管理体制

そして施設内での生活はというと・・・

まるで刑務所

 

全て時間で管理され、兄妹であろうと異性間の会話は禁止。

(男女で生活エリアが仕切られています)

学校には行けず(原則施設内からはでられません)

朝から勉強時間はあるものの、ひたすら既存のドリル的なやつを解く日々。

しかも入所のたびに一からやらされます。(小1の算数から)

 

勉強の時には全体に対して1名職員が付きますが、特に教えてくれることはありません。ドリルの採点のみで一杯一杯なのでみんな聞けない様子でした。

当時の私はどちらかというと勉強は進んでいる方でしたので問題ありませんでしたが、

追いつけない子も沢山いました。

様々な状況の子どもがいるのを承知なはずなのにこの体制・・・

ただ規律を守らせるためだけにいる職員。

そんな扱いをされるなら刑務所の囚人と変わりません。

子どもたちの未来の事なんて考えていないとしか思えなかったです。

 

 私自身人生で2度一時保護所へ入りました。

1度目は7歳の時

2度目は14歳の時

 

2度目に入ったときは、懐かしいと思えるほど変わってはいませんでした。

設備も当時のまま、職員の態度や管理体制もそのまま。

当然のように悪いことをすれば懲罰もありました。

 

反省文は勿論ですが、勉強や毎日書かされる日記のときの机は一人だけ廊下に隔離。

勉強中なんて元々話してはいけない仕組みなのに、隔離の必要ありますか?

廊下に一人、わざわざ机を出しそこで何時間も勉強。

見せしめ以外の何物でもありません。

 

ここまで書いてきた事が一時保護所のマニュアルにあるのか、職員個人の判断によるものなのかは不明なのでいつか必ず調査します。

 

もしもマニュアルでそれが何十年もそのままだとしたら・・・

 

 

十分にありえる業界なのです。

未だに職員からの虐待がある業界です。

マニュアルがない施設も沢山あるでしょう。

人が相手だからマニュアルなんて使えない?
そんなことはない!! 日々の作業や流れは確実にマニュアル化できる。

当たり前にしてあげてほしい。

 

大事なのはその誰でもわかるマニュアルに何を追加できるかだ。

子どもたちが入る施設での最低基準が違ってはいけない。

子どもたちは入る施設を選べないのだから。

当たり前の基準をもっと高く、そしてそれを当たり前に。

 

因みに私がいたときの当たり前は下記記事にまとめています。

 

donkoma.hatenablog.com

 

 まとめ

一時保護所経験者は児童養護施設出身者じゃなくても世の中に沢山います。

一時保護所は衣食住に不自由はしませんが、刑務所レベル。

間違いで保護されてしまうケースも少なくありません。

今でも昭和の管理体制なので昭和を味わえます。

 

 

それでも学ぶこともありました。

 

絶対にあんなふうにならないということ。

 

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【児童養護施設関係者へ】子どもたちの未来のためにできること

子どもたちの未来

子どもは親の背中を見て育つ。
そんな言葉を聞いたことがある人は多いと思う。

子どもたちにとって一番身近な大人が【親】だからなのであるが、
7世の中には様々な理由で親とは暮らせない子どもたちがいる。
そんな子どもたちに周りの大人ができることを考えていこう。

  • 子どもたちの未来
    • なんでも教えてあげる
    • 失敗させてあげる
    • 知らないことは一緒に勉強してあげる
    • 最後に

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なんでも教えてあげる

やってあげてほしいことを一言で表すなら。
いろんな情報を自分の体験談をのせて教えてあげる
ということである。

そのまますぎて具体的にも何もないのだが、もう少し掘り下げてお話しよう。
先の記事で特に児童養護施設の職員や、学校の先生は社会人を経験してから入職できるようにした方が良いという話をしました。

読んでいない方は下記をご覧ください。
donkoma.hatenablog.com


その理由の一つとしてあまりにも情報量が少なすぎるということ。
私がいた児童養護施設でもそうでした。
初めての就職が今の児童養護施設の人ばかり。
同じ勤務先に長年勤めるのが良いとされている時代でしたし、子どもの事を考えたら職員の在籍は長いほうが良いわけです。
しかしそれにより悪しき習慣が生まれたり、あってはならない状況が起こっていたのも事実です。


今回そこはさておき、子どもの未来のためのお話。
情報と一言で言っても人への伝わり方が違うのをご存じでしょうか。

  • 自分で調べたり、人から聞いて知っている情報
  • 自分が体験して知った情報

どちらが相手に伝わりやすいと思いますか?
もしくはどちらが相手の心に残ると思いますか?


後者なのです。


理由はそこに自分の体験談や感情が入るからです。
ただ調べただけの情報は無機質といいますか、あくまで勉強した情報でしかないのです。
そこに感情や体験談をのせることでより相手がイメージしやすくなります。

わかりやすくいうと言って教えることは調べれば誰にでもできます。
しかしそれをやって見せてあげられることが大事なのです。
私が教わった言葉に
「言って聞かせて、やって見せて、やらせてみせて、ホメてやらねば人は育たず」
という言葉があります。

この言葉を習ったのは社会人になってから。
もっと早く知っていればと何度思ったことでしょう。
皆さんも職場や学校で思ったことありませんか?

失敗させてあげる

一つ目は体験談を教えてあげると言いました。
今度は一見それとは矛盾していることを勧めます。

なんでもやらせてあげてください。
失敗させてあげてください。

それが必ず将来宝物になります。
児童養護施設で育った子に限らず、失敗してこなかった子どもたちのその後の新しいことに挑戦する意欲はかなり低いです。

  • 失敗から学ぶこと
  • 成功する喜びを知ること
  • 自分の向き不向きをわかること

生きていくうえで必ず役に立ちますし、早い段階で知っておくことが大切です。
因みに私は失敗はできない環境で育ち、誰にも教えられず、何があっていて違っているのかわからないまま社会に出ました。

幼いころから靴のサイズは自分で決め、その結果足の指は隣の指の形をしています。
靴が小さすぎたのです。
骨盤骨折してリハビリ病院に入院するまでそんなこと誰も教えてくれませんでした・・・
知ったときの絶望感。もし正しいサイズの靴を選び続けることができていたのなら、私はきっとプロスポーツ選手になっていたことでしょう。小学校4年生の時から治っていないオスグット(成長痛)は今でもそのままです。
足のバランスが悪いことでのパフォーマンスの低下。事実靴のサイズをcmアップしたら今までなかなかできなかったプレーが簡単に出来ました。
それぐらい子どものころの情報は成長に左右するのです。

児童養護施設の職員の皆さん気にしてあげられていますか?
そもそもそこを職員の皆さんに任せること自体が間違いなのかもしれませんが、現状は仕事の一つです。
気にしてあげてください。

因みに私がこの失敗体験談を話しながら球技を教えたりすると、子どもたちは関心をもって話を聞いてくれます。
これが大事な失敗を乗り越え体験を伝えるということです。
ただ取り返しのつかなくなるような失敗は大人が程々のところで強制的に止めてあげてください。

知らないことは一緒に勉強してあげる

そうはいっても子どもたちに聞かれて知らないことは教えてあげられませんよね?
そんな時は見栄を張らないで一緒に調べたり、勉強してあげてください。
一緒に図書館に行くでもよし。
インターネットで調べるもよし。

子どものころ自分がしてもらってうれしかったことをそのままに。

そうすることで自分の知識も増えますし、子どもたちとの時間も共有できます。
たまには子どもたちから教わるのもいいでしょう。子どもたちは意外と教えるのが好きですからね。
学ぶことも大事ですが、教えることも知識を定着させるのには大事な要素の一つですので欠かせません。
インプットしたことをアウトプットすること。


何よりも大事なのは子どもの目線で一緒に考えてあげるということです。
今回の問題だけではないですが、同じ目線に降りることで対話ができます。

忙しいのはわかりますが、何のためにこの仕事をしているのか今一度考えてみてください。
子どもたちの未来のために。
そして自分の為にも。

最後に

児童養護施設管理職の皆さん
厳しいのは承知ですが、人員を増やす努力をお願いいたします。
子どもたちのケアには時間が必要です。しかしケアできる人間が少なすぎます。
外部の機関などをもっとうまく利用していきましょう。
需要と供給マッチしていません。

外部機関の皆さん
もっともっと発信してください。
必要なところへ届いていません。
調べなくても入ってこないと、今現在苦しんでいる子どもたちには届きません。
積極的なアプローチとしつこい情報発信を!!


卒業生の皆さん
まだまだ大変なのはこれからです。
みんなで助け合っていきましょう。
情報交換して常につながっていけば何かの役に立ちます!


簡単にあきらめるな!!
自分の人生自分で切り開こう。

続きを読む

児童養護施設の子どもたちには地域の理解が必要 【愛に飢えている】

子どもを育てるということ

子どもを育てるのは親の役目。
それが世間一般、普通の方の考え方なのではないだろうか。

しかし世の中には様々な理由で、親の元で生活できなくなっている子どもたちがいる。
私もその一人でした。

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町で子どもを育てるのが昔は当たり前のことだった

なんだかピンとこない人もいるであろう。
それもそのはず。今ではその光景をほとんど見ることはなくなったからである。

隣にどんな人が住んでいて、どんなことをしている人なのか知っている人がどれだけいるだろうか。
ほとんどの人が知らないのではないかと思う。

しかし、ひと昔前はそんなことはなかった。
隣近所どころか町中知ってる人で溢れていた。
それがいいとか悪いとかの話ではなくて、そうだったのだ。


お互いがお互いに興味があり、顔を覚えることでいい関係が生まれていた。
勿論それにより悪いことをするとすぐに町中に知れ渡る。みたいなこともよくあった。
と前置きの話はこれくらいにして・・・  本題へ。


そんな日本の古き良き文化は、勿論私が育った町でもありました。
むしろ都会の真っ只中にありながら、【村】のような町でした。
町の大半の人たちが顔見知りで、何かあれば情報網ですぐに情報がいきわたる。
悪いことをすればその場で容赦なく怒られる。他人の子どもとか一切関係ないのです。

叱ってあげることがやさしさ。教えてあげることがその子のためになる。
それが町の防犯などにもつながっていました。

児童養護施設にいる子どもでも関係ない

町の子どもという意味ではその子の境遇や住んでる環境、身なりや頭の良さは関係ありません。

全員が対象で全員が平等。
でなければいけません。


しかし…
そうではないのです。
下記の記事でも書きましたが、児童養護施設に住む子ども達への、大人達の知識不足による偏見やいじめ等が多くみられます。

もうね…
無知な大人の偏見はほんとに酷い。
親からあの子と関わるな!って言われたらそりゃ萎縮して言うこと聞くと思いませんか?

私たちがあなたへ何か危害を加えましたか?



ただのイメージです。
そしてその多くは公務員。

この記事が前回の続きになっている理由がここです。

学校の先生しかり
役所の職員しかり
国家議員しかり
警官しかり

勿論中には違う方も沢山いらっしゃいますので一概には言えませんが、私が住んでいた地域の方々は比較的多かったです。
特にその中でも上層部の方々の住宅が近くに沢山あったせいか、上層部の方々の偏見が多く感じました。

同級生の多くは帰国子女。
小学6年生のときなんかクラスの半分ぐらい英語わかる子が居たんじゃないかな…

ちょうどそのタイミングで新しい公務員住宅が出来たのもあったからかとは思いますが、流石に小学6年生にもなってその偏見を改めて住んでいた町で受けるとは思わなかったので、とても驚いたのを覚えています。


町の文化や伝統は護るべき
先にも書きましたが、都会の真ん中にある【村⠀】みたいな所でした。
だからこそ良かった事があります。


そう



町のみんなが児童養護施設への理解があったこと。
ここでの町とは商店街や地主さんのような昔からこの町へ住んでいる方々の事を表します。

昔から先輩達が築き上げてきた信頼関係。
各学年に先輩達はいましたので、良い噂悪い噂はあったと思います。
それなのに!

あの子は児童養護施設の子どもだからね…
みたいな目で見られたことはありません。

それどころか町で会えば気さくに話しかけてくれたり、遊びに行けばとても良くしてくれたりと、
沢山かかわってくれました。

それが【普通】だったからこその上に書いたことが不思議で仕方なかったのです。
仲間たちを護るために、その方々の子どもへ牙を向けたこともありました。

私は直ぐに意味の無いことに気が付きやめることができましたが、
中には喧嘩になってしまったり、やり返してしまう人もいたでしょう。
そうなると当然ここぞとばかりにこちらが責められます。


先に攻撃してきたのは相手なのに・・・


行動することで偏見を変える

やられてもやり返すな!!
どっかで聞いたようなセリフを言いかえたように聞こえるが、私はこの時から言っていた。

よく耳にする

やられたらやり返す。


一見当たり前のように聞こえるが、永遠に続くループ以外の何物でもない。
自分に返ってこなくなったと喜んでいる人がいるかもしれないが、実はその被害は周りの人へいっていたりする。

いじめもそうなりがちだが、止める手段は一つ。
自分のところで止める。

といってもやられたらやられっぱなしというわけではない。


自分の時はそうだったから、この先もそう。というのは何も考えていないだけなのである。
自分がされて嫌だったことは人にはしない。
いい方向に変換してあげる癖をつけるのです。


以前に書いた記事の先輩からのいじめに対して私は実践しました。
donkoma.hatenablog.com


先輩は自分がされたから、自分の時はそうだったからという理由で私に同じことを繰り返した。
それを私の代で止めたい。

負の連鎖は誰も良い思いをしないですからね。



さて、じゃあ具体的何をしたかというと。
すりこまれた自分の考え方を違う発想へ転換


考え方は簡単です。

  • 自分がされて嫌なことを繰り返さない。
  • 別のやり方で相手に伝えることはできないか考える。
  • 相手も分らないだけかもしれないと思って動く。


そうして動いている間に相手が勝手に変わってきます。
相手を変えること難しいので、まずは自分が変わって見せる作戦です。

これには時間がかかりますが、こちらにデメリットはありませんからね。



勿論それでも変わらな方もいるのでその時は・・・



無視。

それでも駄目なら社会的に訴えるしかありません。

学校を通したり
警察を通したり

スピーカーを変えると同じ事でも伝わったりしますからね。
相手を思っての行動なのであしからず。

そうしているうちに、町から少しづつ偏見によるいじめや嫌がらせはなくなっていきました。


大事なのは屈しない心
自分に負けるな!!


それをサポートするのが職員の皆さんです。
時には家族として、友人として、時には叱るときもあることでしょう。

私はとてもありがたかったです。


相手のことを思って言ったことは必ず伝わります。
それが今ではないかもしれませんが・・・
10年後にわかるかもしれませんし20年後かもしれませんが必ず。


だから諦めないで何回でも教えてあげてください。
愛をもって。


最後に

職員の皆さんをはじめ、町の皆さん
子どもちにご自身が体験したことを沢山教えてあげてください。
経験したことを自分の言葉で。

何かのきっかけになるかもしれませんし、子どもたちは覚えているものです。
必ずしも親からな必要はありません。
町全体で子どもたちに愛を。



そうしたら少しは愛に飢える子どもたちが減ると思うので。

児童養護施設で育ったから気が付いた問題 【無償の愛】が必要

児童養護施設で育ったから気が付くこと

  • 児童養護施設で育ったから気が付くこと
    • 児童養護施設出身者が抱える問題
    • 無償の愛を求めて
    • 職員の見直ししなくて大丈夫?
    • 後述 気が付く問題

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児童養護施設出身者が抱える問題

児童養護施設で育った方の中にはその境遇を周りに言えなかったり、隠したくはないけど言うタイミングを逃して今に至るなんて人も少なくはないと思う。

正直これに関しては仕方ない部分もある。
と言うよりは環境的にそうなっている気がする。


まだまだ世間の児童養護施設への認知度は低いし、
何より恐いのだ。



何が恐いって?


人を信用すること。



誰を信用していいのかわからない。
また裏切られるんじゃないか。




勿論中には両親との仲が良好な方もいるとは思うが、全体の1割ぐらいであろう。

大半が虐待、蒸発、ネグレクト等が原因で子どもに何かしらの症状が起こった末の入所となる。
逆に言えば子どもに症状が出てから発覚するので、そのトラウマと一生戦うことを余儀なくされる。

その中でも児童養護施設で信頼できる職員との出会いがあったり、運よく里親のもとへ行くことになり里親に恵まれるなど、好条件に恵まれ回避できるケースも無くはない。
結構稀なケースではあると思うが。


問題なのはそのどっちにも恵まれない場合。
社会に出てみるとわかるが、職員も当然一人の人間なのでプライベートがありますよね。
子ども達とずっと一緒にいることはできない。



勿論それは子どもたちもわかっています。



わかってはいるんです・・・
でも試さずにはいられない。

もしかしたら…


だから試す。
でも希望通りには受け入れてはもらえない。


だからいろんな人に
または同じ人に、同じ行動をしては試します。
何度も何度も。


自分が知っている限りの狭い空間の中だけで。


無償の愛を求めて


そもそもは親から頂けるものなのであろう。
【無償の愛】


それがどんな感じなのかが私に一生分かることはないが、一つだけ言えることがある。



探す努力をすることは出来る。




最初にも書いたが児童養護施設出身者は自分の境遇を中々言い出せなかったり、
周りの人へ言いだすのに時間がかかってしまったりする方が多い。

しかしそんな中私は敢えて
児童養護施設出身
と言うようにしている。


理由は
関係ないところから【知ってしまう】より
私から【知らされる】の方がいいからだ。

わかる方にはわかると思うが、
自分から伝えることで、何よりその人がそれを聞いた瞬間の顔が見れる。
それでその人が児童養護施設に対して大体どういうイメージなのか、私をどう受け入れようとしているかが分かる。


そしてその時に私は決まって
「私、児童養護施設出身なんですよ」というようにしている。
そしてその後必ず、
「しってます?児童養護施設って」と話しを続ける。


普通の人が両親の話をするのと同じように話し続ける。(ここでは敢えて普通の人と書く)
私たちにとってそれが当たり前だから。


私たち児童養護施設出身者がその話をするときに躊躇うことで、
なんか言いにくい場所なんだ
児童養護施設っていう話に触れちゃいけないんだよね?
という印象を付けてしまいやすい。

今でもそう思っている方が多いのではないだろうか。
しかしこれは完全なる周知不足で、あえて私たちが言わないように仕向けられていた様な気さえする。
だからあえて自分から伝えて興味を持ってもらっている。



職員の見直ししなくて大丈夫?

未だに児童養護施設で生活しているという理由でいじめがあるそうだ。
児童養護施設での虐待すらもあるという。
時代遅れも甚だしい。

因みに私のいた時代はそんないじめや虐待は普通にあった。


普通にと書いたのはそもそもそれが虐待とされていなかったからだ。
悪いことをすれば「謹慎」

  • 部屋謹慎
  • 施設内謹慎
  • 法人内謹慎

部屋謹慎の場合食事は自室でとり、同部屋の人間との会話さえ制限されることがあった。
今では完全にアウトであろう。
しかしそれが普通のように行われ、皆従っていた。

当時の児童養護施設のおかしな当たり前の一つである。
子どもたちはそれが施設のルールであり、業界全体のルールだと思っていた。
しかしながら当時の職員が誰一人としてそれを止めなかったのには不思議である。

大学や大学院では当然、
児童が悪いことをしたら謹慎にして反省させてください。
なんてことは教えないだろう。

なのになぜそれを不思議に思わず、なんの疑問も持たずに普通に遂行できるのか。
【知らなかったから】以外の何物でもない。


その謹慎ルールはある日突然「げんこつダメです」という発令とともに消えていった。

これも自分が社会人になって色んな職員と話したからわかったことだが、
児童養護施設でしか働いた事がない人が多い。
つい最近まで学生だった方がいきなり子どもたちの世話をしたり、心のケアできますか?
自分の生活でいっぱいいっぱいじゃないですかね・・・
それでいいんですよ。社会人なんて慣れないといけないものですから。


新卒採用で3年以内に辞める確率を聞いたことありますか?
厚生労働省のデータでも出ていますが

  • 高校卒 40%
  • 大学卒 30%

高校卒で職員になる方は少ないかと思いますので、大学卒で話します。
大学卒でも30%が3年以内に辞めています。
勿論児童養護施設でもそれは例外ではありません。
きつさで言ったら体力、メンタルともに上位の児童養護施設職員ですからね・・・


だからこそシステム的に職員の採用は
一般企業で3年以上働いたことのある人としていただきたい。

長年続けている職員ですら難しいのに最近まで学生だった方がいきなり色んな境遇の親から虐待を受けた子どもや、引き離された子どもたちと生活し傷を埋めていけるとは思えない。
※子どもたちと寄り添うことはしてあげられると思います。



入ったばかりの職員がすぐに辞めたらどうなるかわかりますか?


職員の欠員1名



ただそれだけでは済まされないのが児童養護施設の職員。

子どもの生活を見る人、心のケアをする人が一人減るのです。
子ども達からしたら【親代わり】が一人減るんです。

想像してみてください。
両親揃っていても大変といわれる子育て。
それを自分の子ではなく他人の子どもを育てる。
ましてや心に傷を抱え、内にこもりがちになった状態で入所してくる。


そんな大事な仕事。
そんな大事な時期の子どもたちを預かる自覚を持ち、
その覚悟があるのかをちゃんと確認してから採用を決めていますか?


ここばかりは大事なことは今も昔も変わらない。

一人でも多くの子どもたちが普通の生活を送れるように。
その大事な道しるべになれる一人が児童養護施設の職員です。



児童養護施設管理職の皆さん
これからの子どもたちの未来はあなたたちにかかっています。
勿論私たち卒業生もできる限りのことはするつもりです。
しかし子どもたちが持つ児童養護施設のイメージの良し悪しは、ほぼ確実に職員の行動で決まります。

  1. ルールの見直し
  2. 採用の見直し
  3. 担当の見直し
  4. 指導の見直し

今一度お願いいたします。
そして児童養護施設全体で今一度、徹底管理、職員同士でお互いを気にしあうことをしてください。


そして何より町と子どもを繋いであげてください。
必ず将来宝になります。

後述 気が付く問題

書いていて気がついたが、勝手に当り前だと思っていたことが当り前ではない。
習慣とは恐ろしいものだ・・・
次は町で子どもを育てるとどうなるのかを書きます。

続きを読む

『児童養護施設の普通と世間の普通』町で子どもを育てる。

児童養護施設での普通は世間では普通ではない

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まず普通とは何か。
普通とは何も考えずに当たり前に行っていること。
それ以外には選択肢がない事があげられると思います。


この記事は下記記事の続きです。
donkoma.hatenablog.com

  • 児童養護施設での普通は世間では普通ではない
    • 全てが当たり前だと思っていた。
    • いじめられた事による副産物
    • 地域(町)で子どもを育てる
    • これからの子ども達のために

全てが当たり前だと思っていた。

児童養護施設に来ておよそ2か月。
毎日のように友達宅を転々と訪れ、なるべく自分の部屋にいないようにしていました。
勿論最新のゲームができたり、おやつが貰えるといった理由もあったとは思いますが、


最大の理由は


部屋に居たくなかった。


理由は上記記事で説明させていただきましたが、先輩が怖かったからです。


しかし、毎日必ず部屋には戻らなければなりません。
食事、お風呂、睡眠
必ず先輩と一緒です。


常におびえていました。
しかしながら、もうそれが普通だと思っていました。


慣れってすごいですよね。


殴る蹴るは相変わらず。
虫の居所が悪いときにあたればひどいものです。
当時の職員も気がついていたでしょう。
気がついて貰えるようにしてみたこともあります。


何も変わりませんでしたが・・・


そんな日々が何年続いただろうか。
単純に今計算してみても、当時私は7歳。先輩は10歳。
高校生になるとグループホームといわれる別の場所へ移動して生活するので、少なくとも5年間。

ピークは先輩が同じ小学校に通っているときなので、最盛期は3年ぐらいでしょうか。


7歳~9歳の間が一番ひどかった気がします。


私が小学校高学年になるころには少し抵抗できるようになってきていたのもあってか、
少し収まってきてはいましたが、隙を見つけてはといった感じでした。


その頃は日中もうほとんど施設にはいなかったのでそう感じている可能性もあります。
もう少しひどかったら、私は今これを書けていなかったかもしれませんね。



でもそんな恐怖が役に立ったこともあるんです。


いじめられた事による副産物

暗い話ばかりしてきましたが、先輩にいじめられていたのもちゃんと役に立っています。
施設に居たくなかった私はいつものように毎日友人宅を転々としていました。

当時住んでいた地域は東京の中でも比較的裕福な人が多い地域。
渋谷までも徒歩圏でしたし、今でこそ栄えましたが、当時はおっさんの町といわれていた中目黒も徒歩圏内。
地名をあげれば、大半の方が知っているような地域です。


そのせいか同級生の親御さんたちは公務員や地主さんが多く、大体の友人のお母さんは専業でした。
専業主婦ってやつですね。


狭い地域なのもあって、皆私の境遇を知ってくれており、
それでもよく家で遊ばせてくれました。


勿論中には児童養護施設にいる子どもをよく思っていない親御さんもおり、
明らかに嫌な顔をされたり、避ける方もいました。


しかしそこは先輩のおかげ!!



先輩のおかげでしっかり人の顔色をうかがうのが身についておりましたので、
そんな家には二度といくことはありませんでしたが、流石にそんなことされたらトラウマになりますよね。
それで遊びに行けなくなった子たちも中にはいるんじゃないでしょうか。



今思えば当時は今よりもっともっと色んな情報が少なく、
児童養護施設とはどういうものか、どんな子たちが生活しているのか知らなかっただけなのかもしれませんが、
知らないからといって子どもを傷つけていい事にはなりません。
子どもを育てる立場として、子どもの周りの環境などはちゃんとした情報を知っておく必要がありますし、
しっかりした情報を親が子どもに教えるべきです。


って自分は親にそんなこと習ったことはないんですけどね・・・



ただ自分が育った地域は昔から児童養護施設が存在し、
たくさんの先輩方が地域との関係を築いてくれていたので、地域の方が比較的知ってくれておりました。
地主さんが多いのも少し関わっているのかもしれません。


なのでそんな方はほんの極一部です。


地域(町)で子どもを育てる

友人宅を転々と遊び歩いていた私が最も通い詰めた友人宅があります。
その友人宅では様々なことを教わりました。

お家に入るときは  お邪魔します。
帰るときは     お邪魔しました。

靴は自分で揃える。
おやつは遠慮しないで食べる。

これはほんの一部ですが、他にもたくさん教えていただきました。

しっかり教育してくれた為、無意識でやるようになっていたので、
高校生ぐらいになってから他の友人宅へ遊びに行ったときに褒められたのを覚えています。


その通い詰めた友人宅へは大人になってからも、近くに行くたびに顔を出し、
友人がいない時も親御さんとお話して帰ったり、なんなら晩御飯をいただいたりもしています。
おじいちゃんやおばあちゃん、おばさんにまで覚えていただき、
お年玉をもらったり、一緒にキャンプへ連れて行ってもらったりと親戚の子のように扱っていただきました。

この話は別記事でも触れますが、とてもお世話になりました。


町全体が都会の真っ只中にあるにもかかわらず、村みたいな感じでしたので、
本当に町に育ててもらったといっても過言ではありません。


これからの子ども達のために

毎日友人宅を転々していたことが功を奏し、
施設を退所した今も未だに町との関わりがあります。

友人の家が商店街のお店の一つだったこともあり、
夏祭りの手伝いをしにいったり、
町おこしの一環で行っているフリーマーケットへ毎年参戦したりしています。


そこで育った後輩たちが大きくなった時に遊びに来れるような、自慢できる町であるように。
児童養護施設の子ども達=素敵な子たち
というイメージが当たり前になるように。

そしてせめて自分が育った町からは児童養護施設に入る子どもたちが出ないことを願って。
みんなによい未来がありますように。

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児童養護施設での行われている『当たり前』

当たり前に児童養護施設へ行くとは知らされていなかった。

3歳で母親と、6歳で父親との別れを経験し、一時保護所で生活することになった一人の子ども。
何もわからないまま過ごしていたそんなある日・・・


突然出来事は起こります。


こちらの記事は下記の続きです。
donkoma.hatenablog.com

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  • 当たり前に児童養護施設へ行くとは知らされていなかった。
    • 児童養護施への移送
    • 孤独と孤立
    • 寂しさからの脱却
    • 児童養護施設の悪しき習慣
    • 人にやられて嫌なことを自分はするな

児童養護施への移送

一時保護所で暮らすことおよそ1ヵ月経とうとしていたある日のこと、
祖母と叔父(父の兄にあたる方)、そして知らないおばさん達が一緒に私たちの元を訪れた。


正直何が起こっているのかわからない状況の中で、
あれよあれよと私たちは黒のワゴン車へ乗せられ、行先も告げられないまま車は出発。


車の中では知らないおばちゃんが笑顔で話しかけてくる。
色々聞かれたような気もするが、私たちはそれどころではなかった。



走ること30分~40分ぐらいだっただろうか。
いよいよ皆さんお待ちかねの児童養護施設とのご対面だ。


これからここで約12年間もお世話になることになるとは思いもしていなかった。



孤独と孤立

養護施設についた私はまず応接室へ通された。
その時点で姉とは別々にされたが、既に姉のことなど気にする余裕はなく、
気が付いたらすでに祖母たちの姿もなかった。


応接室には何人かの職員のみで、7歳の子ども一人に対しては多すぎる人数であった。


※当時の養護施設は一つの部屋に数人の職員と一人の児童といった状況がよくあったが、
後にこれは普通ではないことに気が付くことになる。
そのことは別記事で後述するので今はスルーします。



応接室では少し施設の説明と、担当職員との会話があったが一瞬過ぎて覚えていない。
話の後、設備の説明や案内、これから生活することとなる自室へと通された。


自室といっても当時の養護施設は3~4人で1部屋が当たり前の時代だったため、
当然のように相部屋となり、3つ上の先輩と同室となった。
(私が入所した当初は小学生がまだ少なかったので2人部屋でした)


しかしながらその先輩は、偶々はしか真っ只中で、別の静養部屋へ隔離中。
どうやら当時はしかが流行っていたらしい・・・



というわけで本来は4人部屋のところ、運がいいのか悪いのかしばらく一人で住むこととなる。
ちなみに部屋の広さは畳6畳ほどのスペースと畳3畳ほどの板の間といった間取り。

板の間の部分に勉強机があり、その上が棚になっている。
そして畳のスペースが普段過ごしたり寝るスペースとなる。




そこに7歳の子どもが一人。





しかも親や姉と引き離されほやほや。






想像してみてください。






自分でもよく泣かなかったなと思います。



施設に入ってしばらくは言っていたそうです。
「お父さんかえってくるよね」と・・・・





そしてある日を境に言わなくなったそうです。




もしかしたら施設に来たその日に既に諦めていたのかもしれません・・・



もう父親は帰ってこないと。



同時に悟ったのかもしれません。


一人で生きていかないといけないということを。


寂しさからの脱却

そんなこんなで、右も左もわからないところへ放り投げられ、何日かがたちました。
何をしていいのかもわからず、何をしたらいいのかもわからず。


ただただぼーっとしていました。



流石に職員がもう少し気にするべきだと思います。
保育園を出て間もない7歳・・・



周りに話せる人もいなければ、
一時保護所の影響で異性間の会話はNGだと思っているから姉のところへも行けない。
そもそも生活区分がされているので、共有部分でしか会うことはできない。



生まれて初めての絶望はここで味わいました。
きっとそこで心を閉ざし、感情を飲み込むようにしたのだと思います。




養護施設出身の方には感情がうまく相手に伝えられなかったり、
表現が苦手な人が多く見受けられます。
多くの方が解決策がみつからないまま大人になり、今も暮らしているでしょう。



しかしながら、一部の方々はそこから脱却できています。





そのキーワードは
「愛」




親からの愛に恵まれず育つことが多い児童養護施設出身者は、
これが原因なことがほとんどです。
世の中には様々な愛がありますが、
親からの愛の定義は無条件の愛



ほかの条件でその愛が補えることは稀です。




閉ざしてしまった心。
まずはそこを開放できる環境を整えること。
そして何度失敗しても受け入れてくれる人がいること。

様々な条件が重ならなければクリアできない問題です。
私も自分の存在価値を常に探していました。



自分とは何か
自分にしかできないことは何か
自分の得意なことは何か


それがわかれば自分自身を肯定できる気がしました。
今考えても7歳児が考えることとは思えませんが、
実際にそう考えていました。



そこで見つけた自分が昔から得意で無意識にやっていたこと。



とにかく今を楽しむ。



笑う門には福来るとはよく言ったものです。


とにかくいろんな友達と遊び、今できることをやる!
これが7歳児が考えた、寂しさから逃れられる唯一の術でした。


児童養護施設の悪しき習慣

何とか現状を飲み込み、毎日を楽しもうとしている私でした。


しかし・・・



相部屋の先輩がはしかを完治させ、部屋へ帰ってきたのです。



先輩からしたら至極当たり前のことです。
元々自分が一人で住んでいた部屋なのですから。




私はやっと自分のサイクルが見え始めた矢先に、方向転換を余儀なくされることとなります。




これは後日談になるのですが、その先輩はさらに上の先輩たちからいじめられておりました。
相手は中学生。


理由は・・・
生意気だから。



先輩は当時10歳。小学校4年生です。
敬語なんて使えるわけもなく、まだまだお子様。
たまには生意気な口もきくこともあるでしょう。


普通の家庭なら親が注意し、教え、学ぶ。
でもそれができない。



仕方ないんです。




学校や施設の職員は敬語なんて教えてくれません。
小学生に敬語なんて必要と思っていないから。




出来なくて当たり前のことを注意され、殴ったり蹴ったりされる。
しかも集団で。

職員へ告げ口すれば更にやられるので職員には言えない。
当時は比較的当たり前の光景だったようにすら思えます。


耐えて
耐えて


その行き着く先はさらに下。
その先輩の怒りのはけ口は・・・・  


そう!!


私です。




だって他に下がいませんから!!


人にやられて嫌なことを自分はするな

この言葉を学んだのはこの時です。


当時7歳の私はその先輩の政権下にありました。
勿論一緒に遊んでもらったり、何かを教わったり。
良い思い出もたくさんあります。


もしかしたら兄とはそういうものなのかもしれませんが、
私には兄はいなかったので、他人の先輩という目線でお話します。


絶対的に勝てない相手。



毎日怯え、先輩の機嫌を気にしていう通りにする。



今でも音に以上に敏感だったり、周りの目を気にしすぎるのは
この時に無意識に身についてしまったものだと思います。



当時の外出可能時間は16:45まで。
遊びに行ってもその時間までには敷地内にいなければなりません。


それは施設のルールなので当然守らなければならないものです。
1分、2分遅れたぐらいで職員はどうこう言うことはありませんでした。



しかし5分前には到着していないと謎に先輩の鉄拳が飛んでくるのです。



なんで殴られるんだろう・・・



社会人になれば5分前や10分前行動は比較的当たり前になってくるので、
あまり違和感はないかもしれませんが・・・
7歳の私には、
なんで?
という思いがものすごく強かったのを覚えています。


ちなみに今とは違い、学校の先生や施設の職員にも悪いことをしたらげんこつをいただくことはありました。
しかしそれは自分に悪いことをした認識もあったり、
怒られるとわかってたのにやったりした事もあったので納得できていました。

※当時も本当はダメだったはずですが・・・ 今ほど厳しくなかったので。



そんな日が続いているうちに・・・
いつの日にか先輩を避けるように、今まで以上に友達の家ヘ遊びに行くようにりました。


毎日なるべく早く友達の家へ。
そしてなるべく長く自分の部屋から離れていたい。


7歳の子どもが抱く感情なのでしょうか。
私には答えはわかりませんが、
少なくとも自分の友人達からは一度もそのような話は聞いたことがありません。


そんな私がどうやってそのループから脱出したかは次の記事で書きます。

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児童養護施設で育った経緯とそれから。

 

自己紹介を兼ねて書いていきたいと思います。

 

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  • 児童養護施設で育った経緯
    • 経緯
      • 父の失踪
      • 一人の入学式
      • 一時保護所への入所の理由は
    • 一時保護所という場所
      • 親のもとでは暮らせないと判断された場合

 

児童養護施設で育った経緯

生まれは青森県中泊町(旧中里町)

育ちは東京都

 

幼いころに両親の離婚を経験。

7歳から児童養護施設で育つこととなる。

 

経緯

3歳の時に東京へ引っ越してきたみたいです。(記憶があいまいで・・・)

元々は大田区に住んでましたが、両親が離婚。

父親側へ引き取られることとなった私は、父親と姉の3人で暮らしておりました。

 

近くには父親の母、私たちからすると「祖母」が一緒に面倒を見てくれており、

父の帰りが遅いときなどは、ご飯の用意をしてくれたりもしてました。

 

祖母も仕事をしておりましたので、姉と二人の時もありましたが、

祖母が近くの中華料理屋さんに予めお金を払っておいてくれて、

二人で食べに行っても金銭の授受がないような状況になっていたのでとても安心でした。

今思えばそれを快く受けてくれたご夫婦には感謝しかありません。

古き良き日本の風習でしたね。

ありがとうございます。

 

という日々を送っていた私たちでしたが・・・・・・・

 

 

父の失踪

町も寒くなり始めた11月のある日・・・

 

 

 

 

父親が夜になっても帰ってきませんでした。

 

 

 

 

普段から二人でいることも多かったので、

仕事が大変なのかな?
ぐらいにしか思っておりませんでしたが、今思えば当時8歳と6歳の子供二人でその状況なのはすごい状況でした。

 

時間がたっても帰ってこず、夜遅くになるまで待ちましたが、

父親はかえって来ないままその日は眠りにつくことにしました。

 

夜中に何度も父親の布団を確認したのを覚えています。

窓の外が少し白けだした朝方・・・・

ふと目が覚めるとそこには父親の姿がありました。

 

お?帰ってきたんだな!!!

と思って声をかけたのも束の間

「すぐにいかないといけないから」

 

そう言って父親は私たち2人を残して家を後にしました。

それが父親との最後の会話です。

 

 

当時私は保育園の年長で、送り迎えは基本父親がしてくれておりました。

仕事の後に迎えに来てくれていたので、毎日お残り組で、時には最後になることもありました。

自然と一緒に残っていた子たちと兄弟みたいになっていたのを覚えています。

 

父親が失踪した日が何曜日だったかは覚えていませんが、後日聞いたところ保育園には行っていたみたいで、元気だったみたいです。

 

今思えばどうやって保育園までいったんでしょうか・・・

 

当時住んでいた家から保育園までは自転車でも20分はかかる場所にあり、

歩ける距離ではあるのですが、6歳児が一人で歩いて通うのを許されるわけがないので謎です。

 

父親が失踪して2,3日経ったある日、保育園の園長先生が私の元気がない事に気が付き、担任の先生に調べさせたそうです。

 

そしたら父親が何日も帰ってきていないと発覚。

 

その日の翌日から卒園まで毎朝、保育園の先生たちが順番に自転車で迎えに来てくださり、登園させてくれました。

本当に感謝してもしきれません。

 

気が付いた園長先生がまず凄いですし、仕事とはいえ毎朝迎えに来てくれる先生方。

私立保育園だからできた事なのかもしれませんが、

今の自分があるのは間違いなくこの暖かさに触れることができたからだと思います。

 

 

一人の入学式

父親が見つからないまま3、4ヶ月が経とうとした3月。

いよいよお世話になった保育園を卒園する日が来ました。 1年もいなかった保育園でしたが、沢山お世話になりました。ありがとうございます。

 

卒園があれば当然すぐに入学式があります。

 

入学式の日は祖母は仕事。

姉の通っていた小学校への入学になるわけなのですが、

私には同行してくれる人がおりません。

 

 

 

 

1人で向かう小学校の入学式…

 

 

 

 

 

になるはずでした・・・

 

 

しかし、その話を聞きつけた保育園の担任だった先生のお母さんが、一緒に入学式へ行ってくださることになったのです。

 

 

 

そこまでしてくださるのか・・・!

 

 

 

家が近所だったというのはあるのですが、

全く血のつながりもなく、娘の職場の児童だった子ですよ?

 

普通そんなこと出来ないのではないでしょうか…

 

 

本当に感謝しかありません。

 

 

なんとお礼を言ったらよいか。

一生に一度の小学校の入学式を良い思い出へと変えてくださいました。

ありがとうございます。

 

 

入学式も無事に終わり、通常の生活をし始めてひと月が経とうとしたある日。

 

 

転校することになりました。

 

 

 

そう。

一時保護所への入所が決まったのです。

 

 

全くその詳細は聞かされておりませんでしたので、

何がなんだかわからなかったのを覚えています。

 

何もわからないまま、やっと少し慣れ始めた環境からの旅立ち。

 

 

もう既に慣れっこでした。

 

 

両親の駆け落ちから始まり、離婚。

そして父親の蒸発。

 

それまでにも東京と青森を行ったり来たりしておりましたので、

新しい環境への対応能力は既にかなり高いものになっていました。

 

 

因みに養護施設へは必ず一時保護所を経由して行く事になります。

一時保護所への入所の理由は

両親の育児放棄

補導からの強制送還

虐待

 

様々ですが上記が多いと思います。

 

私たちの場合は祖母が育児をするのは厳しく、

祖母が児童相談所へ相談したところ、一時保護からの養護施設への入所を勧められたとのことでした。

 

 

今考えると好判断だったと思います。

当時祖母は60歳を超えており、引退間際。

その祖母が私たち2人の学費や食費を賄いながら育てるのは無理というもの。

 

小さいながらにその状況を飲み込んだのでしょう。

戸惑いながらも自然と受け入れることが出来ました。

 

一時保護所という場所

【一時保護所】という言葉に聞きなれない方も沢山いると思います。

先ほど少し説明しましたが、一時保護所とはその名の通り一時的に保護される場所で、

虐待により強制的に親から保護される場合もあれば、

夜中に非行等で補導されてそのまま保護されるパターンもあります。

経済的に厳しくて預けるパターンなど理由は様々ですが、

現状は虐待がほとんどと聞いています。

 

こうやって書いていると子どもが原因の理由が一つもないのが気になってしまいますが、親と言っても様々。

大抵の人は自分の親を見本として子どもを育てます。

 

子どもを育てるためのバックアップがない人もいれば、

親の子育てを見ていない人もいます。

 

それでいきなり子どもを育てるって・・・

無理があるような気もしますが、それが現実です。

 

話を戻しますね。

一時保護所というところは上記のような理由により、一時的に保護される場所です。

勿論一定の期間が過ぎれば自宅に戻り、今まで通りの生活を送る人もいます。

 

戻れる人とそうでない人の判断基準は別の記事で後に詳しくやりますが、

親のもとでは暮らせないと判断された場合

 

・養護施設

・自立支援施設(教護院)

乳児院

 

この三つの行先が主になってくると思います。

乳児院は対象年齢が1歳未満

それ以上は基本的に養護施設です。

今は名前が変わっておりますが、当時の教護院(自立支援施設)は

「不良行為を犯したもの」

「不良行為を犯す恐れのあるもの」が対象です。

 

乳児院や自立支援施設に関しては別の機会に書きます。

 

基本的には養護施設へ送致されるのですが、その前に1カ月~2カ月ほど一時保護所で生活することになります。

対象年齢は7歳~18歳

一度入所したら特別な場合を除いて外出はできません。

 

当時の情報なので現在は少し改善されているかもしれませんが、男子エリアと女子エリアに別れています。ここでは原則男女間の会話は禁止。兄妹であってもそれは徹底されます。

 

洋服や使用するのものは全て支給され、個人のものを持ちこむことはできません。

入所前にドクターチェックがありますが問診程度です。

一時保護所内では基本的には時間が管理されており、勉強の時間、運動の時間、食事、入浴、自由時間もあります。毎日夜に日記を書かされるのでゴールデンタイムのTV等は見れないといった状況です。

 

刑務所や少年院へは入った事がないのでわかりませんが、ほとんど変わらないんじゃないかと思います。

まあ一時的な保護の場なので、自由な時間など娯楽の時間はあまり必要ないと判断されているのでしょう。

 

部屋は年齢混ぜ混ぜの4人部屋が基本で、3人の場合もあります。

部屋の配置や人員構成はある程度考えられてはいるみたいですが、その時の職員の判断なので良し悪しはあります。

 

私は同年代と同じ部屋だと夜中話ができて楽しかったのを覚えています。

入所者の中でも信用度のランクがあり、問題児ほど職員の監視から一番近い部屋となります。

 

監視というと語弊がありますが、一番奥の部屋ほど職員の目は届きにくく近ければ何をしていても見られている感じです。

当時はそんな気分でした。

 

勿論、良い意味でも見てくれる部屋となるので、悪いイメージばかりではありません。

 私は入所中にはしかに罹り、一人隔離されることとなりました。

 

 

その時の部屋が正にその監視部屋。

 

夜中でも様子を見に来てくれたことを覚えています。

当然仕事なので気にしなければいけないのでしょう。

しかし、両親から捨てられた当時7歳の子どもにはとても温かく感じました。

 

その日を必死にこなし、姉とも会話できず7歳の子どもが慣れない環境で暮らす。

 

想像してみてください。

 

過酷です・・・

 

 

 そんな気持ちを沢山の方へ知ってほしくてこの記事を書いています。

 

次回は養護施設への入所してからの悩みを書きますので宜しくお願いいたします。

 

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