どんこま散歩

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児童養護施設をもっとみんなに知ってほしいブログ

児童養護施設での行われている『当たり前』

当たり前に児童養護施設へ行くとは知らされていなかった。

3歳で母親と、6歳で父親との別れを経験し、一時保護所で生活することになった一人の子ども。
何もわからないまま過ごしていたそんなある日・・・


突然出来事は起こります。


こちらの記事は下記の続きです。
donkoma.hatenablog.com

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児童養護施への移送

一時保護所で暮らすことおよそ1ヵ月経とうとしていたある日のこと、
祖母と叔父(父の兄にあたる方)、そして知らないおばさん達が一緒に私たちの元を訪れた。


正直何が起こっているのかわからない状況の中で、
あれよあれよと私たちは黒のワゴン車へ乗せられ、行先も告げられないまま車は出発。


車の中では知らないおばちゃんが笑顔で話しかけてくる。
色々聞かれたような気もするが、私たちはそれどころではなかった。



走ること30分~40分ぐらいだっただろうか。
いよいよ皆さんお待ちかねの児童養護施設とのご対面だ。


これからここで約12年間もお世話になることになるとは思いもしていなかった。



孤独と孤立

養護施設についた私はまず応接室へ通された。
その時点で姉とは別々にされたが、既に姉のことなど気にする余裕はなく、
気が付いたらすでに祖母たちの姿もなかった。


応接室には何人かの職員のみで、7歳の子ども一人に対しては多すぎる人数であった。


※当時の養護施設は一つの部屋に数人の職員と一人の児童といった状況がよくあったが、
後にこれは普通ではないことに気が付くことになる。
そのことは別記事で後述するので今はスルーします。



応接室では少し施設の説明と、担当職員との会話があったが一瞬過ぎて覚えていない。
話の後、設備の説明や案内、これから生活することとなる自室へと通された。


自室といっても当時の養護施設は3~4人で1部屋が当たり前の時代だったため、
当然のように相部屋となり、3つ上の先輩と同室となった。
(私が入所した当初は小学生がまだ少なかったので2人部屋でした)


しかしながらその先輩は、偶々はしか真っ只中で、別の静養部屋へ隔離中。
どうやら当時はしかが流行っていたらしい・・・



というわけで本来は4人部屋のところ、運がいいのか悪いのかしばらく一人で住むこととなる。
ちなみに部屋の広さは畳6畳ほどのスペースと畳3畳ほどの板の間といった間取り。

板の間の部分に勉強机があり、その上が棚になっている。
そして畳のスペースが普段過ごしたり寝るスペースとなる。




そこに7歳の子どもが一人。





しかも親や姉と引き離されほやほや。






想像してみてください。






自分でもよく泣かなかったなと思います。



施設に入ってしばらくは言っていたそうです。
「お父さんかえってくるよね」と・・・・





そしてある日を境に言わなくなったそうです。




もしかしたら施設に来たその日に既に諦めていたのかもしれません・・・



もう父親は帰ってこないと。



同時に悟ったのかもしれません。


一人で生きていかないといけないということを。


寂しさからの脱却

そんなこんなで、右も左もわからないところへ放り投げられ、何日かがたちました。
何をしていいのかもわからず、何をしたらいいのかもわからず。


ただただぼーっとしていました。



流石に職員がもう少し気にするべきだと思います。
保育園を出て間もない7歳・・・



周りに話せる人もいなければ、
一時保護所の影響で異性間の会話はNGだと思っているから姉のところへも行けない。
そもそも生活区分がされているので、共有部分でしか会うことはできない。



生まれて初めての絶望はここで味わいました。
きっとそこで心を閉ざし、感情を飲み込むようにしたのだと思います。




養護施設出身の方には感情がうまく相手に伝えられなかったり、
表現が苦手な人が多く見受けられます。
多くの方が解決策がみつからないまま大人になり、今も暮らしているでしょう。



しかしながら、一部の方々はそこから脱却できています。





そのキーワードは
「愛」




親からの愛に恵まれず育つことが多い児童養護施設出身者は、
これが原因なことがほとんどです。
世の中には様々な愛がありますが、
親からの愛の定義は無条件の愛



ほかの条件でその愛が補えることは稀です。




閉ざしてしまった心。
まずはそこを開放できる環境を整えること。
そして何度失敗しても受け入れてくれる人がいること。

様々な条件が重ならなければクリアできない問題です。
私も自分の存在価値を常に探していました。



自分とは何か
自分にしかできないことは何か
自分の得意なことは何か


それがわかれば自分自身を肯定できる気がしました。
今考えても7歳児が考えることとは思えませんが、
実際にそう考えていました。



そこで見つけた自分が昔から得意で無意識にやっていたこと。



とにかく今を楽しむ。



笑う門には福来るとはよく言ったものです。


とにかくいろんな友達と遊び、今できることをやる!
これが7歳児が考えた、寂しさから逃れられる唯一の術でした。


児童養護施設の悪しき習慣

何とか現状を飲み込み、毎日を楽しもうとしている私でした。


しかし・・・



相部屋の先輩がはしかを完治させ、部屋へ帰ってきたのです。



先輩からしたら至極当たり前のことです。
元々自分が一人で住んでいた部屋なのですから。




私はやっと自分のサイクルが見え始めた矢先に、方向転換を余儀なくされることとなります。




これは後日談になるのですが、その先輩はさらに上の先輩たちからいじめられておりました。
相手は中学生。


理由は・・・
生意気だから。



先輩は当時10歳。小学校4年生です。
敬語なんて使えるわけもなく、まだまだお子様。
たまには生意気な口もきくこともあるでしょう。


普通の家庭なら親が注意し、教え、学ぶ。
でもそれができない。



仕方ないんです。




学校や施設の職員は敬語なんて教えてくれません。
小学生に敬語なんて必要と思っていないから。




出来なくて当たり前のことを注意され、殴ったり蹴ったりされる。
しかも集団で。

職員へ告げ口すれば更にやられるので職員には言えない。
当時は比較的当たり前の光景だったようにすら思えます。


耐えて
耐えて


その行き着く先はさらに下。
その先輩の怒りのはけ口は・・・・  


そう!!


私です。




だって他に下がいませんから!!


人にやられて嫌なことを自分はするな

この言葉を学んだのはこの時です。


当時7歳の私はその先輩の政権下にありました。
勿論一緒に遊んでもらったり、何かを教わったり。
良い思い出もたくさんあります。


もしかしたら兄とはそういうものなのかもしれませんが、
私には兄はいなかったので、他人の先輩という目線でお話します。


絶対的に勝てない相手。



毎日怯え、先輩の機嫌を気にしていう通りにする。



今でも音に以上に敏感だったり、周りの目を気にしすぎるのは
この時に無意識に身についてしまったものだと思います。



当時の外出可能時間は16:45まで。
遊びに行ってもその時間までには敷地内にいなければなりません。


それは施設のルールなので当然守らなければならないものです。
1分、2分遅れたぐらいで職員はどうこう言うことはありませんでした。



しかし5分前には到着していないと謎に先輩の鉄拳が飛んでくるのです。



なんで殴られるんだろう・・・



社会人になれば5分前や10分前行動は比較的当たり前になってくるので、
あまり違和感はないかもしれませんが・・・
7歳の私には、
なんで?
という思いがものすごく強かったのを覚えています。


ちなみに今とは違い、学校の先生や施設の職員にも悪いことをしたらげんこつをいただくことはありました。
しかしそれは自分に悪いことをした認識もあったり、
怒られるとわかってたのにやったりした事もあったので納得できていました。

※当時も本当はダメだったはずですが・・・ 今ほど厳しくなかったので。



そんな日が続いているうちに・・・
いつの日にか先輩を避けるように、今まで以上に友達の家ヘ遊びに行くようにりました。


毎日なるべく早く友達の家へ。
そしてなるべく長く自分の部屋から離れていたい。


7歳の子どもが抱く感情なのでしょうか。
私には答えはわかりませんが、
少なくとも自分の友人達からは一度もそのような話は聞いたことがありません。


そんな私がどうやってそのループから脱出したかは次の記事で書きます。