どんこま散歩

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児童養護施設をもっとみんなに知ってほしいブログ

『児童養護施設の普通と世間の普通』町で子どもを育てる。

児童養護施設での普通は世間では普通ではない

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まず普通とは何か。
普通とは何も考えずに当たり前に行っていること。
それ以外には選択肢がない事があげられると思います。


この記事は下記記事の続きです。
donkoma.hatenablog.com

全てが当たり前だと思っていた。

児童養護施設に来ておよそ2か月。
毎日のように友達宅を転々と訪れ、なるべく自分の部屋にいないようにしていました。
勿論最新のゲームができたり、おやつが貰えるといった理由もあったとは思いますが、


最大の理由は


部屋に居たくなかった。


理由は上記記事で説明させていただきましたが、先輩が怖かったからです。


しかし、毎日必ず部屋には戻らなければなりません。
食事、お風呂、睡眠
必ず先輩と一緒です。


常におびえていました。
しかしながら、もうそれが普通だと思っていました。


慣れってすごいですよね。


殴る蹴るは相変わらず。
虫の居所が悪いときにあたればひどいものです。
当時の職員も気がついていたでしょう。
気がついて貰えるようにしてみたこともあります。


何も変わりませんでしたが・・・


そんな日々が何年続いただろうか。
単純に今計算してみても、当時私は7歳。先輩は10歳。
高校生になるとグループホームといわれる別の場所へ移動して生活するので、少なくとも5年間。

ピークは先輩が同じ小学校に通っているときなので、最盛期は3年ぐらいでしょうか。


7歳~9歳の間が一番ひどかった気がします。


私が小学校高学年になるころには少し抵抗できるようになってきていたのもあってか、
少し収まってきてはいましたが、隙を見つけてはといった感じでした。


その頃は日中もうほとんど施設にはいなかったのでそう感じている可能性もあります。
もう少しひどかったら、私は今これを書けていなかったかもしれませんね。



でもそんな恐怖が役に立ったこともあるんです。


いじめられた事による副産物

暗い話ばかりしてきましたが、先輩にいじめられていたのもちゃんと役に立っています。
施設に居たくなかった私はいつものように毎日友人宅を転々としていました。

当時住んでいた地域は東京の中でも比較的裕福な人が多い地域。
渋谷までも徒歩圏でしたし、今でこそ栄えましたが、当時はおっさんの町といわれていた中目黒も徒歩圏内。
地名をあげれば、大半の方が知っているような地域です。


そのせいか同級生の親御さんたちは公務員や地主さんが多く、大体の友人のお母さんは専業でした。
専業主婦ってやつですね。


狭い地域なのもあって、皆私の境遇を知ってくれており、
それでもよく家で遊ばせてくれました。


勿論中には児童養護施設にいる子どもをよく思っていない親御さんもおり、
明らかに嫌な顔をされたり、避ける方もいました。


しかしそこは先輩のおかげ!!



先輩のおかげでしっかり人の顔色をうかがうのが身についておりましたので、
そんな家には二度といくことはありませんでしたが、流石にそんなことされたらトラウマになりますよね。
それで遊びに行けなくなった子たちも中にはいるんじゃないでしょうか。



今思えば当時は今よりもっともっと色んな情報が少なく、
児童養護施設とはどういうものか、どんな子たちが生活しているのか知らなかっただけなのかもしれませんが、
知らないからといって子どもを傷つけていい事にはなりません。
子どもを育てる立場として、子どもの周りの環境などはちゃんとした情報を知っておく必要がありますし、
しっかりした情報を親が子どもに教えるべきです。


って自分は親にそんなこと習ったことはないんですけどね・・・



ただ自分が育った地域は昔から児童養護施設が存在し、
たくさんの先輩方が地域との関係を築いてくれていたので、地域の方が比較的知ってくれておりました。
地主さんが多いのも少し関わっているのかもしれません。


なのでそんな方はほんの極一部です。


地域(町)で子どもを育てる

友人宅を転々と遊び歩いていた私が最も通い詰めた友人宅があります。
その友人宅では様々なことを教わりました。

お家に入るときは  お邪魔します。
帰るときは     お邪魔しました。

靴は自分で揃える。
おやつは遠慮しないで食べる。

これはほんの一部ですが、他にもたくさん教えていただきました。

しっかり教育してくれた為、無意識でやるようになっていたので、
高校生ぐらいになってから他の友人宅へ遊びに行ったときに褒められたのを覚えています。


その通い詰めた友人宅へは大人になってからも、近くに行くたびに顔を出し、
友人がいない時も親御さんとお話して帰ったり、なんなら晩御飯をいただいたりもしています。
おじいちゃんやおばあちゃん、おばさんにまで覚えていただき、
お年玉をもらったり、一緒にキャンプへ連れて行ってもらったりと親戚の子のように扱っていただきました。

この話は別記事でも触れますが、とてもお世話になりました。


町全体が都会の真っ只中にあるにもかかわらず、村みたいな感じでしたので、
本当に町に育ててもらったといっても過言ではありません。


これからの子ども達のために

毎日友人宅を転々していたことが功を奏し、
施設を退所した今も未だに町との関わりがあります。

友人の家が商店街のお店の一つだったこともあり、
夏祭りの手伝いをしにいったり、
町おこしの一環で行っているフリーマーケットへ毎年参戦したりしています。


そこで育った後輩たちが大きくなった時に遊びに来れるような、自慢できる町であるように。
児童養護施設の子ども達=素敵な子たち
というイメージが当たり前になるように。

そしてせめて自分が育った町からは児童養護施設に入る子どもたちが出ないことを願って。
みんなによい未来がありますように。